霊山寺について
九州西国霊場第八番札所の飛来山霊山寺は、和銅元年(708)に開山した1300年の歴史をもつ天台宗の寺院です。御本尊は霊峰「霊山」の山中にお姿を現された十一面観音菩薩で、古来より観音霊場として信仰を集めています。
ご由緒
寺伝によると和銅元年(708)に山麓の稙田荘田尻村の豪族「七郎祐世」によって創建されたとあります。七郎祐世は狩りを好んでいましたが、ある夜、夢の中に僧侶が現れ「日頃の狩猟における殺生の罪は重い。罪業を消除するために早く山に登って観音像を礼拝し、精舎を建立しなさい」と告げました。祐世は山に登り観音像を求めましたが、日が暮れたので大きな岩の下で夜を明かそうとすると、目の前に異光が放たれました。青苔を除き、落ち葉を払うと、身の丈6尺(約1.8メートル)の十一面観音像が姿を現したのです。以来、自身を「祐世道者」と号し、山中に草堂を建立して十一面観音像を安置したところ、不思議な霊験が日夜と現れ、草堂は立派な精舎となりました。
その後、インドの僧侶である那伽法師がこの地を訪れた時に、この山の形がインドの霊鷲山によく似ていることに驚き、祐世に「霊鷲山の一角がここに飛来したのではないか」と告げ、伽藍を建立して十一面観音像を安置して「飛来山霊山寺」と名付けられました。霊鷲山はお釈迦様が法華経を説かれた聖地です。
平安時代には天台宗の宗祖である伝教大師最澄が天台宗の教えを求めて入唐する際に霊山寺に願文を捧げ、帰国後の弘仁五年(814)にはお礼として霊山寺に再び登られました。この御縁から霊山寺は天台宗になりました。伝教大師最澄の他にも真言宗の宗祖である弘法大師空海や第三世天台座主慈覚大師円仁なども霊山寺を訪れたと伝えられています。
仁寿二年(852)の源平争乱では源家の祈願所として鎮護国家の道場となります。文治元年(1185)には源頼朝の弟にあたる源範頼の参詣もありましたが、文永五年(1268)には火災にあい、堂塔僧坊は全て灰となりました。ただ、御本尊だけは大火の中でも全く傷つかなかったそうです。
やがて大友氏の時代になると霊山寺は大友氏の庇護を受け、再建を果たして昔の勢力を取り戻します。また、建武年間(1334~1336)には足利尊氏の土地寄進もあり、当時、霊山寺末派は各国に充満し、西寒田神社など23社も支配下にあったといいます。ところが、天正十四年~十五年(1586~1587)の豊薩合戦で兵火にかかり観音堂を残すのみとなりました。その観音堂も後に野火にあいますが御本尊は空中を飛んで火を避け、中谷の山中で夜々光を放っていたと伝えられています。
豊薩合戦後、大友氏も滅び、霊山寺は御本尊を安置した三間四面の仮堂ばかりで廃寺に近い有様となります。これを惜しんだ豪珍和尚が村人と力を合わせて再建に尽くしていましたが、その時力を貸したのが徳川家康の孫にあたり、大坂夏の陣で戦功をあげた松平忠直(一伯)です。一伯公は元和九年(1623)に越前国から豊後国に移り住みましたが、信仰を求めて霊山寺を訪れ、寺坊の再建を発願し、本堂・山門・仁王門・鐘楼などを造営し、梵鐘も納めました。以来、修理を加えながら現在に至ります。山門は大分市の指定文化財に登録されています。
十一面観音菩薩について
十一面観音菩薩は苦しんでいる人々をすぐに見つけるために頭の上に十一の顔があり、全方向を見守っています。十種勝利(現世利益)と四種果報(死後成仏)というご利益があります。六観音の1つに数えられ、修羅道に迷う人々を救うとされています。奈良時代から多く信仰されるようになり、延命、病気治療などを願って多く祀られるようになりました。霊山寺の十一面観音菩薩は古来より病気平癒に勝れたご利益があるとされ、善男子善女人の信仰を集めてまいりました。
十種勝利
一、離諸疾病(病気にかからない)
二、一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
三、任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
四、一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
五、國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
六、不被毒藥蠱毒 寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない)
七、一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
八、水不能溺(溺死しない)
九、火不能燒(焼死しない)
十、不非命中夭(不慮の事故で死なない)
四種果報
一、臨命終時得見如來(臨終の際に如来とまみえる)
二、不生於惡趣(悪趣、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない)
三、不非命終(早死にしない)
四、從此世界得生極樂國土(今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる)